表現者だけでなく大学や企業でもインプロのワークショップを開催していると本当にいろんな人と出逢う。
良い出会いもそうでもない出会いもある。
で、そうでもない出会いが悪いかというとそうでもない。
そのたびに「なんでこの人は?」とか「この人に関わるにはどうしたら?」と試行錯誤することが自身やワークショップの向上に繋がるからだ。
その中で最近思うことをメモ的に書こうと思う。
自分をなんとかしたい!と思ってるけど、一切ヒトの言葉に耳を傾けない人がいる。
自分に課題があることを理解している。
人間関係で色んなところでよくモメている。
自分の言動によってそれが起きていることはどうやら知ってる。
だから「なんとかしたい」と言う。
だけど、言葉の端々に
「自分は悪くない」
というニュアンスがある。
そこを突っ込むと
他のコミュニティでは問題なかった。
むしろ忖度なくやり取りできていた。
だから受け取る人が精神的に弱いんだろう。
と言う。
じゃあ他のコミュニティ、またはやり取りできてた人たちのところに行けば良いのでは?と言うと
「そこじゃなく新しいところでやりたい」という。
じゃあ自分が変わらないと、ってことで進める。
だけど、もともと自分が悪いとも問題があるとも《本気》では思ってないから、1番学べるところで鼓膜が震えない。
現場で
「いまの言い方だと人は嫌な思いする可能性あるよ」
だったり
「いま嫌だったよ」
と相手から言われても
スーン
としてる。
頭の中で
「でも」
とか
「いまのはたしかに20%くらいはこっちも良くないな」
とか
「とにかくこの時間よ!過ぎてくれ!」
など言い訳や評価をしているのだろう。
アドラーの世界でいうところの
「可哀想なわたし」
「悪いあいつ」
の世界でものごとをみてる。
よほどの覚悟を決めないと変われないだろう。
または
よほどの覚悟で変わる気がないのだろう。
本人の中では
「自分をなんとかしたい!でも自分のタイミングでね!」
とか、
自分の思うような成長の仕方を決めていて、その言葉を人に求め、その言葉が来なかったらいっさい鼓膜を震わせない。
つまり自分の思うようにしか世界を見ない。
しかし実際は思うようにはならないのよね。
即興としては
思うようにはならない世界に自分をどう関わらせるか?なのだが、その基本である外の世界を見る、聞くができない。
そして本当の自分も見れない。
その人の本当の目的は「自分で自分をなんとかしたい!」ではなく、「なんとかしようとしてる私を認めてほしい!さらにいえば尊敬してほしい!」なんだと思う。
その人がどう感じるか?どう思うか?は、その人の課題だから
目的が人に依存するものだと、永遠に叶わない。
叶うときもあるかもしれない。だが、多くは言ってほしそうだから言ってあげてるだけだ。
裸の王様だ。
じゃあ裸の王様は悪なのか?と問う。
そうとも思わない。
結局その人の人生なのだから、その人の課題なのだ。
だけど、
その裸の王様ゲームに乗るほど、こっちら暇じゃないなぁと思うし、いくらお金積まれてもできれば避けたいなぁと思う。
こっちができることとしては、
愛情をもって言葉でぶん殴るか、出禁か、コツコツと伝え続けるか?ほっとくか、結局はワタリはワタリができることしかできない。
もちろんギリギリまでどうやったらその人に関われるのかチャレンジを楽しんでいる。
またこういう人は少ないわけじゃないから、ちゃんと見極める眼を養うことも大事だ。
そのためには自分の違和感を感じられるアンテナが必要になる。
こんな試行錯誤が苦しくも楽しくあるし、またその決断の結果を引き受けるのは自分自身だ。
そう言う意味ではこうやって考えを深めたり工夫することで成長させてもらえてる。有り難い。
そして良い出逢いは本当に貴重で宝物だから。大切に育んでいきたいと思う。
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