こんにちは。
即興遊戯者・ワタリです。(@watari_bouya)
ワタリが都内で開催している即興(インプロ)ワークショップ「ワタリーショップ」で気づいたことを綴るワタリーショップ・ダイアリーズ。

今回で11弾目となります。
今回はデリカシーについて。
あなたの周りにはいますか?デリカシーなし人間
突然ですが、あなたの近くにデリカシーのない人っていますか?
また「この人デリカシーないなぁ〜」と感じたことはありますか?
それはどんなシチュエーションでどんなことをされたときですか?行為ですか?発言でしょうか?
ワタリは色んなところで色んな人とワークショップをすると、出逢います。デリカシーなし人間。意外とたくさんいます(笑)
デリカシーなし人間が通った後は、妙な静寂が訪れたりします。
そして、その後にとっても嫌な気持ちになったりします。
「ん?今の言葉、何で、何のために言ったんだろう?あれ?あ、傷ついてる!」となる時、目の前にいる人は《デリカシーなし人間》かもしれません。
デリカシーって?
改めて、デリカシーを調べてみました。
デリカシー:感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ。
とあります。
じゃあ、心配りってなに?
心配り:相手の立場に立ち、(相手と)行動を共にしたり、心情を汲み取った行動をとることを意味します。仏典などにもある”同苦(苦しみをわかってあげること・わかちあうこと)”という用語も的を射た表現とも言えます。
余談になるけど、気配りともあるけど、何が違うのだろう?と、これも改めて調べてみました。
気配り:(仕事においては)周りや自分が間違えないように、最大の注意を払ったり、失敗しないように注意を行き届かせたりすることを意味します。この場合、言葉で投げかけることが主です。
なるほど。
デリカシーとは、繊細に相手の心情を汲み取り行動すること。
デリカシーのない人とは、相手の心情を汲み取らず行動したり発言したりする人のこと。
なぜ、《デリカシーなし人間》を考えようと思ったか?
ワークショップは、色んな職種、色んな性質をもった人達が集まります。
習い事を習うことではありません。ましてや1日で習得できるようなものでもありません。
コツコツと、自分を見て、相手を見て、感じて、関わっていきます。
それは即興で芝居をするだけでなく、人と人の関わり方として大事なこと。
その中で、相手の心情を汲み取ることはかなり大きいことだと思います。
つまりデリカシーはとっても必要です。
ただ、最初にも言ったように「ん?それはなんで言うてるの?」ということが多い。
言った相手も自分の発言に対して、言いっ放しであることもあります。これはどういうことなのか?
一瞬一瞬この場にいて、相手の言葉や行動にフォーカスするから、よりそう思うのかもしれません。
普段日常に生きていたら、聞き流したりすることや、気づかないフリをすることなのかもしれません。
隠したり流したり「まぁいいや」と関わらないから、余計にデリカシーがない言動にたいして鈍感になっているのかもしれません。
ではここで例文を1つあげてみましょう。
──────────────────────
ワークショップ。人数が少ない回の時。
ワタリ「はーい。じゃあ始めましょう」
参加者が真ん中に集まり輪になる。
そこで
受講生A君がニヤニヤして
A君「ワタリさん」
ワタリ「ん?」
A君「今日、人、少ないですねぇ〜」
ワタリ「。。。。」
A君「(ニヤニヤニヤ)」
──────────────────────
はい。どうでしょう?
皆さんはどんな印象を持ちましたか?
もしワタリがワークショップの人数が少ないことをとっても気にしていたら、この言葉はとても刺激的なセリフとなります。
そのフィルターがかかっているので、A君の笑顔も「冷笑または嘲笑」と捉えてしまう可能性が高くなります。
その結果、
「今のセリフをなぜ、なんのために言ったのか?原稿用紙10枚にまとめてきて!」と暴君的指示を出すかも知れません。
不用意に言ったのか?
悪意があったのか?
遊ぼうと思ったのか?
心配して言ったのか?ならなぜニヤニヤしたのか?
それを言った先の未来を想像したのか?
向きあう必要があります。(ワタリはしつこい)
しかし、向き合えるならまだ良いんです。
もしワタリに向きあう準備ができておらず、またA君とその関係性も育まれていない場合。
イタズラに傷つくこともあるでしょう。さらに周りが変な空気にならないように傷ついたことを隠してしまうこともあるでしょう。
時々ワークショップや日常において、誰かの発言に対して誰かが傷ついたりしている時があります。
遠くにいても分かる時はわかります。明らかにそこだけ空気が変なんです。
問題は、言った側が、それを言ったことで相手がどうなっているのかを全く見ていない感じていない、ということ。
自分が言った動機を分かっていて、その結果をちゃんと見ているなら「デリカシーがない」とは言いません。
A君が
「今日、人、少ないですねぇ〜」
と言ったあと、それについてちゃんと責任をとってくれているのであれば問題ないと思います。
ただ、その後交わされた会話は
A君「(ニヤニヤニヤ)」
ワタリ「ちょっとどういう意味よ」
A君「え?」
ワタリ「いや、どういう意図よ」
A君「え〜いや、、まぁ」
はい!現行犯!デリカシーなし人間!現行犯!
これはあくまで例だし、たいしたことないのですが。
「え、、なんでそれを言ったのか?」というこの感覚なんだろう?ってなった時に「デリカシー」という言葉を見つけることができました。
人間関係において色んなタイプの問題があると思いますが、このデリカシーの欠落によって起きるエトセトラが結構あるかも?と思い見つめてみようと思います。
デリカシーなし人間の種類と、デリカシーを持てない理由
デリカシーのない人にも色々種類があるように思います。
ワタリなりに種類と理由を考えてみました。
1、デリカシーがないことに気づいてない。それどころか、むしろあると思い込んでいる《妄想型デリカシーなし人間》
自分のこだわりや「これはこうするべき!」というような世界観が強く、全てのことを自分の世界の中の答えに照らし合わせ決めつけてくる。
なので、色々世話を焼いたり教えたりしてくれます。色んなことを自分の頭の中の妄想で判断しリードします。時として頼れる存在だったり、物事を断定してくるから力強かったりします。依存するタイプの人が周りに集まったりして、お山の大将的存在になることもあります。でも、本当の意味で相手の心情は汲み取っていません。無視しています。必要とされたい欲が強いので、そうやって人が集まってくると喜び、よりその繋がりを求めてしまうことで妄想が強くなり、より真実が見えなくなるケース。
2、デリカシーがないことに気づいているが、止めることができない《不安型デリカシーなし人間》
色んな人に指摘されてデリカシーがないことを知っているが、「相手の本当の気持ちを知って自分が対処できなかったらどうしよう?」「またガッカリさせたらどうしよう」「自分の発言で傷つけたらどうしよう」「また傷つけられたらどうしよう?」などの不安から相手のことを想いやる余裕がなく、今までの自分のパターンを変えられずにいる。
人に批判されたり傷つくことを恐れて「本当に自分がどうしたいか?」「自分がどう在りたいか?」が見れない。
まず1番大事な自分の心情を汲み取ることができない。心と体の叫びを受け取ることができない。つまり自分自身へのデリカシーが持てない。なので当たり前に他者の心情を汲み取ることができず。でも、嫌われたくなかったりするので、必死に相手に添おうとするも表面的な部分しかタッチできず。結果、デリカシーがないと判断されてしまうケース。
3、1と2の合わせ技。《スーパーデリカシーなし人間》
気は優しいが、心が弱い。プライドが高いが、自信がない。かつ承認欲求が強い。ゆえに人を巻き込むことができず相手にされない。人が集まらない。それは絶対イヤなことだから、また必死に関わろうとするが、恐怖が強いので直接的に関わりにいけず。絶妙に中途半端な距離で関わる。声の大きさや圧があり、言葉は強いが誰に当てているか正確には分からない。でも強いエネルギーなので、周りは無視することも流すこともできない。本人も自分の言ったことに対応しない。ゆえに周りはさらに離れようとする。でも、また追いかけて絶妙な距離感で関わる。
結果。トラブルになる。もしくは関係が終わる。
デリカシーなし人間との付き合い方
「なぜこの人はデリカシーがないのか?」
関わった当事者は、この質問をする前に、イラッとしたり、傷ついたりする可能性があるので、なかなか考えることができない時があります。
ただ、そうなる状態を理解すると受け取れることができるように思います。
受け止められない時は、とにかくこの時間が過ぎ去るのを待つしかできないけれど、受け止められると、選択肢が増えます。
それとなく伝えたり、正面から伝えたりすることができます。
とくに不安型は自分でもそういう風にしたくないので、それはとっても良いアドバイスになったりもします。
妄想型の場合、聞く耳をもたないかもしれません。それはそれで異文化交流的に楽しい時間にすることができます。
スーパーデリカシーなし人間もその気があれば、コツコツ関わることもできます。
もちろん関わらない選択もできます。
即興で演技することとデリカシーってどういう関係があるの?
即興でパフォーマンスをすることで大事なことはいくつかありますが、その土台として
「相手に良い時間を与える」「相手のために関わる」「相手を鼓舞する」というものがあります。
なぜそれが大事かと言うと、台本がない中で芝居をし物語をつくるので、相手の言ったことや行動を大事にし合い、建設的に創造的に関わっていく必要があるからです。
それを大事にしない人達が即興をすると、「自分のアイディアのぶつけ合い」「主導権の取り合い」「無茶振りをしあうことでアワアワする様子を見せる浅い笑い」になることが多々あります。
なので、建設的に関係をつくり、やりとりする上で「相手のために」というベクトルは大事。そしてそれをする上で「相手の心情を汲み取り行動すること」つまりデリカシーは必要不可欠。
なので「相手のために」や「心情を汲み取る」ということは、道徳的に素敵とかそういうことでなく(もちろ、それもあるけどね)、即興で遊戯する人にとっては「相手と繋がり一緒に未知なる展開や、ハプニングを楽しむ」ための土台として「相手の心情を汲み取ること」は必要ということです。
なので、
《妄想型デリカシーなし人間》《不安型デリカシーなし人間》ましてや《スーパーデリカシーなし人間》であると、即興することは難しい思います。
脱・デリカシーなし人間となるには?
共通することは、「自分の本質を見ようとしていない」ということ。
だから、まず自分をまるごと見つめること。何を感じているか知ること。体の声に耳を傾けること。
自分の心情を汲み取ること。デリカシーある人間になること。
自分を大事にする、まるごと愛していくことが大事。それをワークで繰り返し体験していく。
自分の本質をただただそのまま見る。ということができていくと、人のことも見えてきます。
自分がどう思っているのか?相手がどう感じているのか?
自分の中の答えでなく、そのままを知っていくことができます。
即興で遊戯する時にとっても大事なこと。
即興遊戯者にとってデリカシーは目的ではない
即興遊戯者、ワタリが思うインプロバイザーとは、そのデリカシーを知り、持った上で、デリカシーを欠落させたり、より相手の心情を揺さぶることをして遊び、共演者や観てる人をワクワクさせたりドキドキさせたり、良い時間を与えられるハッピーな人(時々間違うこともあるけど、それにも向き合って対応する人)のことを言います。
だからドラマを創ることができるし、観てる人は何が起きるのか?と期待したり「最低!」とブーイングしたり「最高!」と拍手を送ったりすることができるのだと思います。
安定の中で不安定を起こすことができる。
デリカシーをちゃんと持つことが目的じゃないです。
デリカシーがある人を目指すわけではないです。
デリカシーを知り、デリカシーを持ち、デリカシーがあることもないことも遊び合う材料にできるマインドと身体性。
勇気と愛をもち体現する人間のことを言います。
優しく強く温かく気持ち良い関係。
そういう人が増えると良いなと思っています。
以上、デリカシーについて、ああだこうだしました。
即興をやる時に必要だから書いたわけですが、受け取りたくない人がこのブログを読むと「読みたくなかった。なんてデリカシーのないブログだ」と思われるかもしれません(笑)
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都内(世田谷)で定期開催!ワタリの即興ワークショップ「ワタリーショップ」随時参加者募集中!
即興芝居(インプロ)のメソッドを基本に、自身の活動経験から得たことをシェアしながら進めていきます。
その中で、参加者が自身を見つめ、課題や枠や性質や才能に気づき、それらを自分で受け取り愛し、涵養(水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること)し、より素敵な未来へ向かうお手伝いをしていきます。
詳しくは以下をご覧ください。
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