「お前がやれること、誰でもできると思うなよ」30年間ワタリを支え続ける、友の言葉

「ワタリ、お前がやれること、誰でもかれでもやれるって思うなよ」

高校の時の部活仲間がふいに言ったセリフを急に思い出した。
ちなみにこのセリフは、決して部活でやっていたバレーのことではない。
中学からバレーボール部だったワタリよりも圧倒的なジャンプ力でとんでもないアタックを打つのは、このセリフを言った彼だ。そっくりそのままリボンをつけて返して良かった。

じゃあ、この時に彼が言ったセリフ「お前がやれること、誰でもかれでもやれるって思うなよ」はなんだったのか?

それがいまいち覚えていない。「え?なにが?」って聞いた記憶もない。
ただ、あのときのワタリで考えると、とにかく相手のアイディアに乗って遊ぶということを思いっきりやって、それで笑いが生まれることが楽しくてなんでもやっていたから、きっとそのことだろうと思う。

遠足で山の中に行ったらば「文明がない部族に出逢いそうやな」と言われたら、全裸になって葉っぱ一枚で大事な部分を隠して登場したり、部室で月夜な中でストリップしたり。(パッと思い出したらどっちも脱いでいたw10代なのでご勘弁を)

「お前がやれること、誰でもかれでもやれるって思うなよ」

この言葉。
大人になってからもこの言葉を思い出すときがある。

類まれなるしつこさを発揮したときはもちろんそうなんだけど、それともう一つ。
どうやら「情の深さ」があるようだ。
自分で「情の深い」って言うのはちょっと変な感じがする。でもそうだって言えるのはひとつわけがあって。

オカンもそういうふうに言われているんです。
オカン友達から
「皆、あんたみたいに情が深くない。だからあんたがやれてること、皆はようしきらんのよ」と言われたって話しをオカンから聞いた。

その血は間違いなくワタリにも流れている。

これいい面もあるんだけど、良くないときもあって。
下手するとそれを人にも求めてしまってるんだよね。

そのときに

「お前がやれること、誰でもかれでもやれるって思うなよ」

と、言われた言葉を思い出すのであった。

情が深いんですよっていうことを言いたいわけじゃないんだよ。
その30年以上前に友から言われた言葉によって、
「ああ〜これはワタリがやりすぎてるんだ」と自覚できるんだ。
無意識に求め過ぎてしまってる自分に気づいて、そして修正することができる。

思えば、あれが「人と人とは違うんだ」ということを学んだ最初だったのかもなぁ。

人と人は違う。
ある人にできることはある人にとってはものすごく難しいことだったりする。
考えたけじゃない。
生きてるスピードも違う。
丁寧にじっくりと生きてる人は、ものすごく軽やかに早く動いている人の関わりはとても軽率に感じてしまうことがある。
逆もしかり。重い!とか、慎重すぎてイライラするとかに繋がるんだろう。

どっちが悪いって話じゃなくね。
こんなに違いがあるんだってこと。

そんな人との関わりでそういうギャップが生まれたときに思い出す言葉。

「ワタリ、お前がやれること、誰でもかれでもやれるって思うなよ」

感謝してるよのぼちゃん。

ウグイスがまだ鳴いている。今日は6月6日だよ。それ普通?

ウグイスもウグイスそれぞれか。

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