先日、今の自分では体現できないくらい大きなことに取り組むときに課題をもたないことをススメる記事を書きました。
このあとにまた考えたことがあるのでメモがてら書こうと思います。
「素直」でいることのススメ
即興芝居も武道もヨガも
今の自分の尺度で理解できるものではないの。
先人たちが命をかけて探究してきて、ずーっと受け継がれてきているものを「自分」が理解できるはずもない。
「理解した!」となったとしてもそれはただ勝手に自分で理解した!ってなるように脳内で加工しまくってる可能性があるんです。
つまり本質とは全然関係ない。
取り組む前から、自分のこと(課題や常識や自意識など)で精一杯、頭の中が忙しい。
それが土台でやってるもんだから、「わかった!」ってなっても、それはただ自分の問題を解決したいがゆえの答えだったりして、そういうふうに取り組んでいるうちは、本質に触れてもいない。
海にはいったことがない人が、海について調べて知識いっぱいにして、実際に海にはいるってなってる時も
「海は塩分が○%だから、そこに人間がはいるとこういうことになるはずだから・・」
って考えながらはいるみたいな。
結果、ぜんぜん海を感じられていないという。
即興もそうだし、最近体験させていただいている武道でも思うのは、
「とにかく全身全霊でその世界に飛び込んで、素直に浴びる」
それがその世界に触れられる唯一のことなんじゃないか?って思うんです。
ただこの「素直に浴びる」っていうのが難しい。
「わかりたい」とか「ものにしたい」とかしようとする心や身体が素直にさせない。濁らせる。
理解できないものを前にしたときに、どうしても考えようとする滑稽さ。自分で笑ってしまうくらい素直になれない自分がいる。
ただ、やってみる。考えるのはそれから。
やる前にかんがえない。
とにかく、よく見る。感じる。やってみる。ただやる。そして、超考えるw
これが大事っていってるワタリの目的って?
ここまで書いてふいに
「なんでそれを大事って感じてるの?」って自分に聞いてみた。
体現者をみたことが大きい。
体現者は「自分」がやってる感じがしない。
武道がその人をやってるような。
表現がその人をやっているような。
ヨガがその人をやっているような。
野口体操の野口三千三先生の「原初生命体としての人間」が頭に浮かぶ。
そういう人を見たことがあるからだ。そして少なからず自分も体験したことがある感覚が上に書いたようなことを「大事」と感じているし、そういう表現者で在りたいと思っているからだ。
そう考えたら誰と出逢って、何をみて、なにを体験したか?って大事よねって改めて思った。
コメント
コメント一覧 (2件)
私は、すぐ自分にフォーカスしてしまって相手が見れなくなるので、「とにかく相手を見続けよう。相手を見ることに集中し続けよう。そこから先は起こることに任せよう」と思っています。
でも、そんな意識も持たずに、ただシーンに臨んだ方がいいんでしょうか?
すみません、さっきの質問ですが、
武道なら、
わざわざ
「相手を見ようとし続ける」のいうも不自然なことだなと思いました。
先ほどの質問、取り消させてください。