ワタリやロクディムのワークショップの中で
「相手の言っていることやっていることを妨げず、否定せず、乗っていく」
というのがあります。
2人で即興で芝居をします。
1人がステージに出てきて、キャンパスに絵を書いている。時々目線をキャンパスの向こうにうつして、
「今日すごいキレイだね。いいことあった?」
なんて芝居をしているとする。
その芝居を見ているもう1人が入ってきて
「あなた!何やっているの!?いつも他の女ばっかり書いて!たまにはアタシを書いてよ!」
となる。
これは乗っていることにならない。
あるいは、先生的に入って
「あ〜よくはなってるけどね。うん、もう少しここをこうしたほうが良いね」
というのも乗っていることにはならない。
これにどう乗るのか?
視線の向こう側の人になって
「・・はい。いま、恋してるんです」
ということだったり、
画家の心の声として登場して
「日に日にキレイになってるあの子に告白しちぇよ!」
ということだったりする。
もちろんどれも即興的にはなんの間違いもない。
ただ、条件が「相手に乗る」場合という話。
自分がやりやすいことだったり、好きなことだったり、自分が感じたこと、を優先するんでなく、相手が表現したものにどう乗るのか?
そこに乗って、その相手にまた乗って、という乗り合いから生まれる関係だったり、物語は、お互いの枠を超えて想像も超えていきます。それはとんでもなく面白いことなんです。
また、そこにチャレンジするから、自分の枠を超えたり、超えられないから自分の枠に気づけたりする。
そういう稽古をしているんだけど、たまに
「全然乗り合ってないんだけど、楽しかった」
という感想があったりするんですね。
理由をきくと
「乗り合うってなると、その気持ちがないのに乗っちゃって、ものすごく気持ち悪いし、嘘くさい。だったら、受け入れてないし、乗ってないけど、嘘くさいよりも、よっぽど良いなって思ったんです」
なるほどなと。
こういう反応だったり、言葉がよくあります。
「乗っていく」
「相手の言ってることにイエスという」
その超表面的なことだけ受け取って、
「その気もないのに、相手の言ってることにイエスとしないといけない」
それがインプロだ。イエスアンドだ。
となって、
「その気もないのに表面的にはイエスと言っている即興」をたくさん見てしまい
「乗る」=「嘘くさいやつ」
というレッテルが生まれてしまっている。
または、
自分の感覚史上主義になり、とにかく自分が感じていない(と思っている)ことにたいする拒否反応が強く、はなから乗ろうとしていない。乗るのはあくまで自分が好きなテイストが出たときだけ。
というものがある。
その世界から脱しないと、そもそもいまやっていることの稽古にならない。
「その気がないのに乗った」というのはここではありえない。
それは乗っていないということ。
心から楽しんでるというのは、大前提の話。
でもこういうことはよくあるんですね。
どのワークもそうだけど、そこに全身全霊正面からトライしていないと、まったく違う稽古をしていることになるんだと思うんです。
自分の今までの経験から、勝手に解釈したり、苦手とか嫌なレッテルをワーク自体にはってしまう。
そもそもできるようになりたい!となっていない。
または、できなくてもいいやってなっている。
ということに気づいていなくて、結果、ただただ自分の「快・不快」という中で遊んでいる。
そういうことが起きていたりします。
だからよく参加者の話を聞くようにしています。
「それは自分の感覚に素直になっている楽しさがあるだけで、絡み合っていたり乗りあったいたり、ましてや、まじりあってはいない。そして、心がないのに乗り合っているフリもしてほしくない。そんなワークではない。相手からでてくるものに心から乗るというワークことをしている」
ということを伝えることができるから。
また、もっと伝えられるためにはどうすればいいかを工夫することができるから。
心から楽しんで乗っていく。
そこから出てくる気づきもそうとう面白いし、乗っていって未知なる物語を経験することも相当に面白い。
ただ、いまやっている稽古を履き違えてしまうと、そういう探究ができない。
稽古にならないということが起きる。
大きな学び。
Photo by Meghan Holmes on Unsplash
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