熱望するものがないと、すぐに自分のパターンに収まる。
自分の妄想だったり、記憶だったり、常識だったりに流される。
「こう成りたい」と言ってる人でも、その時その時の快·不快や相手の発言に飲み込まれたりする。
熱望するものがないと、即興は習い事になる。習い事になるとルールを守ろうとする。「共演者と共に楽しくいる」「相手に良い時間を与える」がルールみたいになる。
それは本当の意味では成り立たない。
根っこに「楽しく一緒」よりも「ルールを守る」や「うまくやる」があるから。
一緒に遊ぶルールを守る人。
心から相手と一緒に遊ぶ人。
くらい全然違う。
何にしても心からそうなりたいと熱望する気持ちがないと、自分ごととして捉えて取り組めないんだよなぁって思う。
また、そのつもりでやっても、いつの間にか、「自分が安心していること」や「リラックスしていたかどうか?」や「まぁ悪くなかったよね」という感想になっていたりすることにびっくりすることがある。またそれが面白いなぁとも思う。
良いとか悪いとかってことでなくね。やっていることの本筋ではないってだけで。だけど、ルールでやっている人にはそういうのが伝わらない。
同じ稽古でもやっている質が全然違う。
熱望がないと、その場の自分の快·不快や、周りの空気に流される。下手すると自分が不快になっていたり、やりたいことができないのはその空気のせいだって話になる。
自分の生きたいように生きる。自分を全うするために生きる。
そのために今、どうするか?を真剣に考えないと、勝手に流される。
自分は何を熱望しているのか?
それを知っているか知らないかで、いろいろ変わってくる。
ワタリのワークショップ「ワタリーショップ」は都内で定期開催。
情報はこのブログ、またはメルマガで配信していきます。
コメント