大阪ワークおわり。
参加者は3名。大阪ワークの歴史の中で最少人数なんじゃないだろうか。
開催していればそんな日もあるさ。と最後は開きなおったけど、会場をお借りしている分申し訳ない。
でもおかげで相当にみっちりとやることができた。
明日が千葉でロクディム小田篤史とライブのため、今日中に帰京しないといけないのだけど、最終の新幹線に間に合うギリギリまでやった。経験者が2人いたので、より深く突っ込んでみることもできた。参加してくれる人にとって良い時間になるようにギリギリまで伝えていったんだけどどうだっただろうかね~と思っている。こちらが良いと思っても最終的には受け取る人に委ねられる。「楽しいしかなかった。これからできる限り参加したい」というメッセージをこのブログを書いてる間にもらったので、ひとまずは良かったと胸をなでおろす。
ここからは今日と直接関係なく最近のワークでしばしば思うことをば。
「本人たちが楽しいといってるのであれば、まぁ、ええか。いや、ええのか?」と思うことがある。
本人たちはそういっているけど、ワタリの目にはそう見えないことがある。
パターンでやっているか、または自分のためにやっているか。
自分は楽しかった。それで?や、本当に?というツッコミがない。
掘り下げたり検証したり、そこからの工夫がない。
そういうものが必要ないときは「心から喜んでいる瞬間」や「魂が震えるようなやり取り」をしている時だ。でもそういうふうには見えない。「まぁ・・なんか・・・うん、楽しかった」みたいな感じ。それやったらスマホでゲームしてたほうが楽しいのかもしれない。
ただ、そういう検証や工夫をしないといけないわけでもない。
それをやる気がない人には何を与えても意味をなさない。
または気づいてないっていう人もいる。
でもその人が「気づきたい」っていう欲求がないとこれもまた意味がない。
そしてこちらもワークの目的を「興味があればどなたでも参加OK」と幅広くして募集しているんだから仕方ない。
まさに「自分のためにやって良い」「適当に楽しいところでやってていい」っていう文脈が通用してしまう。
それが嫌で東京のワークは「基本人に見せるためのインプロ」ということに振り切ったのを思い出した。
ただ。いま書きながら思うけど。
「誰でも興味があったら参加可能です」と謳っていたとしても、自分勝手に楽しいが許されるのか?と思う。
自分のストレスの発散のために参加してるのも「あり」というのは無しだろうと。
だったらカラオケにいきな。だよね。
即興芝居はそんなもののためにやっているわけがない。
人と関わるっていうことをやっているのだから、人前でやりたい人であってもなくても、共演者や見てる人と繋がる、楽しませるは基本だ。
そのためにやっているけどストレスが邪魔しているんだったらその時だけ「どうぞ大きい声だしてもいいよ」と促してあげるなどはあってもいい。
でもそれはまったくの目的ではない。
その人のしょうもないものを満足させるためにやっているワークなんだったらワタリはいますぐ止める。やめたい。超やめたい。
そういう人は、一緒にやる相手を見ていない。自分の快・不快のみ。うまくいってないときは、自分がやっていることを正当化するか、または理解できないことに対して不満な態度をみせるかして、どのみちいい空気にならない。
で、自分がそういう空気を出していることに気づかない。
なんてことを考えているおかげで、ワタリはワタリの即興感やどういうワークをやりたいかがより明確になっていく。なのでどれもこれも有り難い。
今後はそういう人に対しては愛と勇気をもって、相手をしないか、おかえりいただくことで対応できるなと思った。
そんなことを考えて実践しているから余計に敷居が高いとか言われるのかもしれないw
まぁええか。そういう意識でやってくれる人、楽しんでくれる人が集まってほしいのだから。
ということで東京も大阪もワタリーショップやっております。バシバシご参加を〜っ。
写真はいつかの別府でのワークショップ。楽しいが溢れている子どもたちに囲まれて。

コメント
コメント一覧 (2件)
そうやねん。たけし。このブログ、読んで。生きることに真剣に向き合っているたけしの姿勢が感じ取れて、よかった。
多分、、人って、それぞれの向き合い方で、自分と向き合っているとは思うんだよね。それがその人にとって少しでも進化していれば、、それならいいな、と思うんだよね。
なんだろう、、誰かも言っていたけど、ワークショップに行って、それで何かを変えれることはない、と。変えたいなら、自分で色々試行錯誤して変わっている、と。
自分も今気づいたことをこうやって偉そうに書いているけど。何か進みたい、と思っていて。何か、とは自分にとって楽なように、よりその場にいれるようにとか。最近の自分は「ゆるりと」という言葉をよく使っていて、昔なら「ちゃんと」とか「きちんと」とかいう言葉で意識していた、と思うんだけど。失敗?とは言わないかも知れないけど、何か自分の素の部分と違う表現をすることになったりして。それで自分にとって「ゆるりと」という言葉を使って意識づけることで、その場に楽に素に近いところでいれるんだよね。と。何かそう気づいた。
そしてひとつ言えるのは、たけしがこうやって自分のことを宣言して話して見せてくれていることで、相手もそれに感化される可能性がある、ということ。例えば、自分のように。
真剣に生きることに向き合うことって、やりがいある仕事だな、と思ったよ。
今回、今週末に猛をメインに催すことになっている「さんかくワタリin大阪」よろしくね。皆さん。
あつや。
コメントありがとう。
それぞれがそれぞれの人生を歩んでるんやから、そこに良いも悪いもない。そして人は変えられないし、変える必要もない。
だから結局は自分が自分を全うするだけなんやろうね。そのために自分と違う人がいてくれて。。
楽しいも嬉しいも憤りも怒りも悲しみも寂しさも全部醍醐味!
最後に笑えればってのがワタリの唯一のエゴやな。また沁みるもんがありました。ありがとう!