即興で芝居をするということは、少なくとも、芝居をすることと、物語をつくることと、演出することと、その場の空気を感じることを同時にやることになります。
これを自分の狭い意識でやると途端にここにいることが難しくなって、相手とのやりとりが極めて希薄なものになります。
中身のないペラペラなセリフや感情の俳優たちがいい加減に相手を受け入れあっている芝居に。
脚本がなく先が分からない中で相手のセリフを受ける。
その言葉の意味や、相手のいっているセリフの裏にある意図を受け取って、「自分の役として次にどんなリアクションでどんなセリフを言うか」を選択して表現する。
そのときに「どんなリアクションが正解なんだろう?」と不安になって深刻に悩んでしまう。
深刻になると囚われてしまって、表現にならない。頭の中に入り込んでしまう。そうなると「次にどうしようかなー」と考えている表情が表出していたり、もしくは何か不穏な空気として表出する。
それでは自分が相手と一緒に関係して遊ぶことはできない。
じゃあ、演技、脚本、演出、空間把握。それらを同時に機能させ、その比重を瞬間瞬間でバランスを取りつつ共演者と、さらには観ている人とも遊んでいくには?
言葉にすると簡単な、無我無心、無我夢中、ゾーン、フロー状態、火事場の馬鹿力、水月移写、などなど、そういうに自分がなることが必要。
そうなるために自分の思考の癖、身体の癖、そこに気づき、見つめ、超えていく、手放していく。
まぁ、これがなかなかに難しいんですね。
昨日のPerformanceワークショップもその難しい部分をネチネチと探求していきました。
多くは、脚本の部分に囚われが多いような気がしたから、大枠は決めて、その中で必死になる設定でやってもらうことに。
思いついたのは、きび団子を持っていない桃太郎が、猿、犬、キジにたいして全力で「鬼ヶ島に一緒に行って欲しい」とお願いする。そのお願いで心が響いたら仲間になるが、響かないなら断られるというもの。
これがそうとうに面白かった。
人の心を動かすために心で接していく。
それでも動かないこともある。
でも諦めずに、時々心折れたりして、また別の仲間を作りにいったりと、ペラペラにならず動き始める。
どちらも相手の一瞬一瞬に呼応していく見応えのあるものになりました。
まずその濃密な体験をしてもらって、また即興にかえっていく。
そこでまたペラっなったら、何が邪魔しているのかを見ていく。
同じ人間なのに、なぜ違うのか?
そこから見えてくる自分の本質。
そこの発見も面白い。
だからできないことは大切。
しかし「ただできない」が大切なのではなく、なにが自分をできないようにしているのかを細かくみていくことが大切。
そういうことを見つめていくワークショップでした。
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