自分を手放し、相手と一緒にいて乗っていくワーク。
自分の好き嫌いや、これはこうしないと!こうあるべき!なんてこだわりがあると、なかなか相手に乗れない。そもそも最初から共演者と一緒にいない。
だから手放す必要がある。
だけどワーク途中、あまりにもデタラメなことに気づく。
「心から」がほとんど感じられない。
出てきたものに乗っかってはいるのだけど、その出処があまりにも自分の心からかけ離れている。
自分の心からやっていないのだから、簡単に乗っかることができる。
自分を投げ出していることと、いい加減に雑に捨てているのとは大きく違う。
この心からやってないっていうのがまたなんとも抽象的だけど、例えば働くにしても、自分のやりたいことじゃなくただお金を稼ぐための手段として、嫌じゃないくらいの、もしくは楽しくなくはない、、かな?くらいで選択するバイトくらいの温度感だったり。
または、自分は全然楽しくないんだけど、即興ってこんな感じのテンションだよねーこれくらいのテンションでやってれば間違いじゃないよねーみたいな目の奥が真っ暗な状態だったり。
中身がないからどれだけ大声だろうがどれだけテンションが高かろうが存在が薄い。ゆえに希薄な関わりにしかならない。
ただ、それ自体がダメというわけではない。
自分がそういうプレイをしていることに気づいてないことが問題なのだ。
本人は一生懸命やっているつもりでも身になっていない。どこかで成功したと感じた体験をなぞっている。形に、フリになっている。
なのでそれを実感できるワークに変更。
しかしそれでも気づかない。
そこでワタリがやってみる。
大きくパワフルに相手が来るが、実態がないから、指向性がないから反応できない。私に言ってないのだ。もちろんそれに合わせて反応することもできる。でも心からじゃないところでそれをやっても意味はない。もしかしたら上手くはなるのかもしれないけれど、上手くなってどうするんだろう?
共演した彼は実感した。
自分が何をしていたのか実感した。
自分がいかに適当なところで形にハマっているのか理解した。気づいて崩れ落ちた。
でも大事なんだ。崩れ落ちるくらいの衝撃。だからこそ学びになる。習い事じゃないんだ。
そして彼が今の自分を見る準備ができていたから崩れ落ちるくらい受け取れたんだ。
準備のない人はまず見ない。
周りで見ていた人も何かを感じ取った。
そこから中身が入り始めた。身が入った空間になっていった。
それぞれがそれぞれ相手と向き合う時間。
気づいて、それで?どうする?と考え、すぐ実践する。実践の中からまた気づいていく。
変に凹まずに。動いていく。
それが強さになっていく。
また、ワタリも実践することで学べた。
受ける側もジャッジするんじゃなく、閉ざすのでもなく、開いたまま向かい合う。向かい合い続ける。
心からいってるかどうかジャッジする体で受けてはいけない。開いたままだと相手は変な傷は受けない。
心から関わって自分を手放して相手と一緒に遊び合う。
その体験は「嬉しい」になる。
やっぱり即興は面白い。
写真は先日行った長崎の風景。
ワタリのワークショップ「ワタリーショップ」は都内で定期開催。
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